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ユダヤ人はなぜ日本通過ビザを求めたのか
ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、スイスと同じように中立国と思われていたリトアニアに移住してたが、1940年7月15日親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。リトアニアがソ連邦下になれば、ユダヤ人たちは国外に出る自由は奪われてしまう。ヒトラーの戦略から、いずれは独ソの戦いが始まることも視野にいれると、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。
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オランダ領キュラソー島
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すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え、領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのは、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクである。彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断した。キュラソー島は岩だらけの小島で、ユダヤ人の窮状を救うために考えられた方便であったが、もはやこれしか方法がない。「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日午前6時であった。
実録・奇跡のビザ
1940年7月18日(木) 午前6時
ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくす。
午前:千畝、事態を把握するためユダヤ人代表を選び領事館に入るように要請。
ニシュリ氏、バルハフティック氏を含む5人の代表と2時間近く話し合う。
ユダヤ人代表
・B. Gehashra Nishri(のちの在日イスラエル大使館参事官)
・A.Dr.Zorach Warhaftig (のちの宗教大臣)
・C. Mirister Shimon Yaeeon(Nishri氏後任、在日イスラエル大使館参事官)
・D. Gileene Klementyroveski
・E. Adv.Zvi Klementyroveski Deputy mayor tel-aviv-yabo
ユダヤ人代表
「我々はナチスドイツから迫害を受け、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館に行けばビザがもらえると聞いてきました。オランダ領キュラソーのビザもあります。日本の通過ビザを交付していただきたい」
千畝
「みなさんの要求は日本通過の許可ということですが、それを証明するドキュメントでもよいから提出してください。みなさんの窮状はよくわかりました。なんとか援助してあげたいのですが、これだけの枚数のビザとなると外務省の許可が必要ですから、3、4日待ってください」
午後:外務大臣に判断を仰ぐ電報をうつ。<第一回請訓電報>
7月19日(金)
午前:ユダヤ人代表と再協議
午後:ソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。
渡航条件完備者、2人に通過ビザを発給。
7月21日(日)
休館
7月22日(月)
外務省より第一回回訓。「ビザ発給拒否」
「最終国の入国許可を持たない者にはビザは発行してはならない」
千畝、苦悩のすえ再度外務省に電報をうつ。<第二回請訓電報>
7月24日(水)
外務省より第二回回訓。「ビザ発給拒否」
渡航条件完備者、5人に通過ビザを発給。
千畝、一晩中ビザを発給するかどうか悩む。
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